vol.5 「ふるさとを編纂した人々」 岐阜県下呂市東上田





 昭和56年、その年の冬は大変な大雪でした。のちに56豪雪と呼ばれる大雪の中、祖父は当時小学5年生だった私と私の弟を庭に立たせ、積雪を背景に写真を撮りました。そのことは忘れていたのですが、つい最近その写真を思わぬところで見つけました。実家で物置の整理をしていると、一冊のスクラップブックが出てきて、そこにその写真が貼られていたのです。


 

 「昭和五十六年 大雪の記録」と表書されたスクラップブックには、当時の様子が写真とともに時系列で記され、冒頭には「まれにみる大雪の様子を記録、後世に伝えるので役に立てるように」と書かれています。祖父がこんなものを残していたことに驚きもありましたが、昔の人は自然現象や日常の記録を、様々な形で後世に伝えていたのだということを、あらためて思い知りました。

 そこには、日本人の自然との付き合い方、制御するのではなく、よく観察し怖れ敬うことで、うまくその流れに乗ろうとする自然観、生き方がよく現われていると思います。また、経験を蓄積し共有することで様々な指針を導き出す、人の人たる知恵のようにも思います。

 そんな地域の経験、歴史を一冊の本にまとめた人たちがいました。



 

 

 下呂市東上田は、旧益田郡下呂町の北端に位置する人口700人ほどの集落です。南北に流れる飛騨川(益田川)の東岸域に拡がる東上田は、地形的に上段部にあたる「上野」地区と、下段部の「保木口」地区に分かれます。上野は飛騨川に注ぐ手呂谷によって形成された扇状地で、縄文遺跡も多く見られ、高台から飛騨川を見下ろすように棚田が拡がります。保木口は飛騨川河岸の平地部で国道41号が走り、沿道には自動車販売店、ホームセンター、ファミリーレストランなどが並びます。「保木」は「歩危」とも書く断崖を意味する古語で、山国の飛騨では、山が川までせり出した崖っぷちの危険な場所をあらわす地名として各地に残っています。実際、北隣の萩原町から保木口に入る川沿いの国道41号には、がけ崩れから道路を守るために洞門が作られています。


《※保木口 昭和48年元旦撮影》




 地区の南北を「歩危」に挟まれたような東上田には、かつて分校がありました。行政区画としては明治の初めまでは三郷村(旧萩原町)に属し、その後下呂村(旧下呂町)に編入されましたが、いずれの中心地からも距離があり、明治19(1886)年に分教場が出来たのです。その後、昭和40(1965)年に下呂小学校に統合されるまでの約80年間、分校は東上田の教育だけでなく、地域の結束と交流の場としてもその役割を担ってきました。


《※東上田全景 昭和33年3月31日撮影》

《※東上田分校 昭和29年撮影》

 分校が無くなってから43年を経た平成20年8月、昭和10年代の分校卒業生が「東上田分校会」として集い、60人以上が集まりました。そこで旧交を温め、思い出話に花を咲かせる中、「東上田の歴史をまとめた本があればありがたいな」という声が上りました。また、分校跡地には公民館が建てられ、地域交流の場として活用されていましたが、平成13年頃からお年寄りが手弁当で「ふれあいサロン」を公民館で開催、夏休みや春休みの期間には小学生も参加するようになり、その数は30人程になっていました。そこでも「この子供らに何か残すことは出来ないか」という声が上がっていたのです。

 このような地域の声を受け、平成21年3月、一人の地区民生児童委員の発案で「東上田誌編集員会準備会」が発足、4月には第1回の編集委員会が開かれ、編集方針・編集計画が話し合われました。




 行政ではなく、地域の声から生まれた東上田誌はどのような本なのでしょうか。以下、刊行の経緯を記した編集委員会資料からの抜粋です。

 「東上田の益田街道を南へと駆けていく30人ほどの一行。その光景を遠くの草陰で震えながら見つめる少年がいました。明治2年3月10日の朝、少年が目の当たりにしたのは新政府から知事として派遣された梅村が、一年ほど後には飛騨の人々に追われるという歴史の一コマです。また、東上田から糸引きに信州に出かけた娘たちは、冬の野麦峠を越えることはなく、坂下まで荷馬車に乗せてもらい、汽車で諏訪・岡谷方面に向かいました。しかし労働の実情は厳しいもので、結核を患う者なども多数あったといいます。

 東上田誌編纂の過程で、こうしたお話を古老からお聞きしながら、改めて考えたことは、私たちが学校で学んだ日本史の主人公は、明治維新なら岩倉だったり大久保だったりするのですが、飛騨の明治維新では、梅村を追う人々、あるいはその様子をじっと見守る少年、『男兵隊 女は女工 ともに尽くすも国のため』と糸引き唄を歌って重労働に耐えた少女たちこそが、日本の近代を切り拓いた真の主人公たちであったということでした。こうした意味で、中央(日本)史を背景としてとらえながら、東上田の人々がその時代をどう生き抜いてきたかを重視するように心がけてきました。

 もうひとつ、避けては通れない歴史的事象が『戦争』でした。特に『日中戦争・太平洋戦争』をどうまとめ、後の世代に伝えていくかという課題でした。『平和を大切に』の一言では解決されるものは何もなく、『悲惨さや苦しみ』だけを伝えるだけでは情に流されるものになってしまう。こうした中で、私たちはもっとグローバルな範疇から歴史を見つめるよう努力してきました。

 この二点は、将来の東上田を担う子どもたちにどうしても伝えたかった点でした。」



《※昭和10年頃 いつの時代も、子ども達の表情は明るく輝いていた》



 

 このような視点で編纂された東上田誌は、読み手に同じ目線で語りかけ、ともに考えようという姿勢が貫かれています。歴史的・社会的・自然的事象に関する100のテーマを掲げ、それらを追求する形で各頁が作られ、全体を11部構成に分けています。

 第1部から3部では、東上田の黎明期から近代、戦後から現代までの歴史を地域に残る古文書・資料、各家に残る日記・写真、聞き取りなどからひも解いています。第1部の冒頭で「時代を遡るほど乏しく限られた資料です。大いに想像力をはたらかせながらお読みください」と語りかけ、読み手の自由な発想にゆだねている所が印象的です。

 第4部では産業が取り上げられ、林業の他、江戸の中頃から普及し、明治政府の国策とともに飛躍的に成長した東上田の養蚕・生糸生産が、戦後の高度成長期に衰退するまでを中央の歴史を背景に語られています。


 

 第5部から7部は、民俗・信仰・伝承です。東上田では関西外国語大学国際文化研究所による聞き取り調査が行われており、明治から大正初期に生まれた7人の古老の話が、昭和63年出版の『下呂の民俗』にそのまま収録されています。また、大正3年生まれの古老が著した『記憶をたぐる』という著書も昭和61年に刊行されており、ともに東上田の民俗・文化を尋ねるにとても貴重な資料となっています。ここではこれらの資料をもとに等身大の人々の暮らしが語られる他、ささやかな日常の積み重ねが歴史として捉えられ、綴られる話の数々に引き込まれてしまいます。

 東上田といえば、「下呂膏」「奥田接骨医院」を思い浮かべる人も多いのではないでしょうか。第8部では東上田の人物を取り上げていますが、1番目に「名医 五世奥田又右衛門」(明治19年生)を挙げています。又右衛門の接骨医としての骨折や捻挫のなどの治療の妙は神技とまで称えられ、その名声は全国にまで聞こえました。連日100人を超える患者が訪れるも治療費は安く、貧しい者には無料で治療を施したその人徳を称え、東上田には頌徳碑が建てられています。また、家伝の膏薬は効能高い貼り薬「奥田家下呂膏」として親しまれ、ネット販売で購入することもできます。他には平成15年、箱根駅伝で大活躍をした東上田出身の中川拓郎(順天堂大学)を紹介、公民館に皆で集まり応援したことが書かれています。


《名医 五世奥田又右衛門》

 第9部では、婦人会・青年組織・老人会・子供会など、地域を支えて来た各種団体が、想い出の日記・写真とともに紹介されています。昔は多かった子どもの人数も、今では少なくなってしまいました。

 第10部は自然と文化財。豊かな自然に恵まれた環境とともに、自然災害の恐ろしさも様々なエピソードと写真で語り継がれています。また、長らく行方不明になっていた江戸時代の東上田の検地帳6冊が、今回の東上田誌編集員会の調査によって40年ぶりに発見されたことも特筆されています。


《※明治40年 東上田で一番古い青年のイベント写真》

 最後、第11部では特集として「平和への祈り」がまとめられています。子どもたちにどうしても伝えたかったことの一つです。先にも述べられていたように、このような話題を戦争を知らない世代に語り継いでいくことは難しいことです。我がこととして現代の自分と結び付けて考え難く、単に遠い昔の事象として受け止められるかもしれません。ともすると事象だけを直情的に捉えることにもなりかねません。

 しかし、現在の自分に連綿としてつながる等身大の故郷の歴史を知ることで、その延長線上に自分が立っていることを本誌を通じて体感した時、戦争という時代を生きた故郷の先人たちと直接つながるその先に、今自分達が生きているということに気付くはずです。編者の願いが通じる瞬間ではないでしょうか。



 

 平成21年3月の第1回編集員会開催から2年後、平成23年3月に「東上田誌~歴史と風土~」は刊行されました。そこに至るまで、様々な苦労があったとは聞きましたが、一番驚いたのは、印刷・製本以外はすべて地域の有志でこなしたということです。原稿の執筆はもちろん、全体の構成、取材、資料の撮影・複写、イラストの描画、古老の歌うわらべ歌の採譜、題字の揮毫、誌面のレイアウトまで、それぞれが得意分野を活かし、すべてを手作りしたとのことでした。初めて本を手にした時、一地域で作った本にしては完成度が高く、作り手の想いが伝わる統一感のある仕上がりであったため、余程優秀なコンサル会社(郷土史編纂を斡旋する専門の業者があるのかと思ったのです)を使ったのだろうと思っていたのです。

 また、活動を開始した直後は「何が出来るのだろう」と遠慮がちだった地域の人も多く、資金面で不安もありましたが、やがて期待を込めて支援する人が増え、編集委員の宅を早朝に訪ね、そっと支援金を置いていく人もいました。多くの人々の期待と、故郷に対する熱意がこの本を作り上げたのです。

 刊行後は大きな反響がありました。特に東上田から外へ出た人たちからの反響が大きく、たくさんの手紙が編集委員会に届きました。このことは、これからの東上田に大きな変化をもたらすのではないかと思います。

 刊行から3年半が経過した今も、編集員会は活動を続けています。東上田誌で取り上げたテーマをさらに深く探究したり、新たな資料の発見などを『東上田誌通信』として事務局が発行しているのです。また、「東上田の歴史を保存する会」という歴史愛好グループも発足し、地域の名所旧跡を知らせる案内板や、東上田名所マップの看板を設置しています。



 



 

 今、盛んに歴史を見直すべきだということが言われます。それも一つ大切なことかもしれません。また、正しい歴史認識を追求するということも大事なことだと思います。しかし、それらの言葉には何かしっくりこないものがありました。

 いわゆる「日本の歴史」としてクローズアップされ、教科書的に日本全体を語る歴史の事象のみを取り上げ、そこにアイデンティティーの源を求めたり、考え方の指針を見出そうとすることに、何かしらの不安・不足を感じていたのです。

 本書の後書きには「私たち地域の歩んできた道は、日本が歩んだ道、さらには世界が歩んだ道に続くものであることを念頭においた」とあります。そして、「日々の暮らしの中にこそ、生の日本史や世界史の姿があるのだと、古文書や古老の話は語っていたように思っています」と結ばれています。

 いま、正に歴史を見直し、新しい時代を切り拓こうとこうとするならば、日々の暮らしの積み重ねとしての歴史、故郷の、いま住む町の、各々の足もとの歴史をまずは知らねばならないと、この一冊は教えてくれているように思うのです。


東上田誌~歴史と風土~

発行 2011(平成23)年3月20日

発行者 東上田誌編集委員会

代表 裁 敬一郎(0576-25-5166)

 
 

「東上田誌~歴史と風土~」は360冊が発行されましたが現在は完売しています。そのため、東上田誌編集員会ではPC専用のDVD版をご用意されています。資料編がさらに充実し、江戸時代の検地帳6巻などの全ページ写真、製本版にはない写真、昔話やわらべうたの音声などが収録されています。(価格は実費500円+送料です)

お問合せ先:東上田誌編集委員会
代表 裁 敬一郎さん(0576-25-5166)


 

東上田誌の内容を一部紹介します。


 

 1930(昭和5)年8月31日、飛行機がえん堤上流の河原に不時着するということがありました。上空を飛ぶ飛行機の爆音すらほとんど聞くこともなかったこの山村に,突如として降って湧いたような驚天動地の大事件でした。

 当時,11歳の少年だった野中佳和さん(現在91歳)は,80年前のこの出来事を,次のように話されました。

 …私が家の裏で栗拾いをしていたら,轟音がして飛行機が湯之島の方から低空で飛んできたが,川に沿ってそのまま川かみへ行ってしまった。しばらくするとまた戻ってきて,中川原上空で旋回すると,さらに高度を下げてえん堤の方へ向かった。飛行機が降りると思った瞬間,ガラガラというもの凄い音がした。それっ!とばかりに一目散に走った。


■『広報下呂』に載った当時の写真 ↑↓

 

 飛行機は,水際に無事着陸して,2人の乗員が機を点検しているところだった。車輪がパンクしているだけで,破損している箇所はない様子だった。飛行士の話では,エンジンが不調で不時着地点をさがして,小坂上空までいったが,よい場所がなくまた戻ってきた。写真を撮るため木曾川上空を目指したが,誤って飛騨川の方に入ってしまったと言う。

 騒ぎを知って,大勢の見物人が集まり,堤防の上と対岸の鉄道線路上は人の列だった。お盆のうちでもあり,馬瀬や竹原方面からも馬に乗ってやって来る人もあり,毎日,見物人が絶えなかった。私は毎日のように見に行った。

 操縦士は,松本の飛行場から来た長谷川という1等飛行士とカメラマンだと言うことだった。機は複葉機で,側まで近づいて見たが,胴体と翼は木材と布を貼ったようなものでできていた。名古屋から整備士が来て修理することになり,その間,当時下にあった富士屋旅館に泊まっていた。高山線は,昭和5年に下呂まで開通していた。

 修理が終わって,いよいよ離陸することになり,地元の人たちや消防団が出て,川原の大きな石を片付け,皆で機をえん堤の方へ引き戻した。エンジンがかかって動き出すと,後方で見ていた人々のカンカン帽が一斉に吹き飛んで水に落ちた。機は轟音を残して上流へ向かって無事飛び立った。しばらくすると,また戻ってきて,皆の前で翼を左右に振った。世話になったお礼の合図だったという。そして,東上田の丸野上空の山を越えて消えた。初めて見た飛行機の凄さに,皆感動し興奮さめやらぬ状態で立ち尽くした。

 口々に話しながらぞろぞろと富士屋の前まで来ると,『無事に松本へ到着した』という電報が届けられていた。そのあまりの速さに,皆は,またまた驚いてしまった。9月4日の事だった。…

 当時11歳という多感な少年の脳裏に焼き付いている情景の一部終始です。(N)

(第2部「東上田の近代化への道」より)



 

 東上田誌編集の中で,多くの家から寄せられた資料の中で多かったものの1つに,「義太夫(浄瑠璃)本」と「謡本」がありました。木版印刷のもので,どの本も使い込まれた様子が見て取れました。


■謡本(上段・下右)と義太夫本(下左)

 明治の初め,保木口手呂谷付近にあった島田屋敷という所で,寺小屋を開いていた師匠は,大人には謡曲を教えていたといわれます。当時から東上田では謡曲が流行っていたことを,現在も数多く残っている謡本の数からも想像できます。また,義太夫本は江戸期のものが数多く残っています。

 これらは今流に解釈すれば歴史物語と歌謡が一体になったものですから,人々の中に入り込みやすい娯楽的要素をもっていたのでしょう。酒の席などで喉を競い合ったものと思われます。

 大正から昭和にかけて,浪花節,講談,民謡などのレコード盤(78回転盤)も普及し始めましたが,これらは高価であったため広く庶民たちにまで広まるものではありませんでした。


 

 大正初めの1月のS氏の日記から,当時の青年層の娯楽らしきものを抜粋してみます。

「7 日…拙宅2 階で裁君と小生とで吉田君を招して大宴会をやる。1 升飲む。…」
「15 日…湯之島高月座へ芝居見に行く。帰りに中川君の祝宴見て帰ると2 時。…」
※高月座は温泉寺を会場に開催された芝居
「18 日…東禅寺観音様参りに行く。…」
「19 日…夜撃剣稽古あり。…」
「23 日…夜百人一首等をして遊ぶ…」
「25 日…夜奥村君来て…泊まる。…」
「27 日…晩は小玉様で赤飯。県教育会回覧文庫,今井先生の本を読む。…」

 このように,仲間との酒宴や出入り,芝居見物,お参り,撃剣(木刀・竹刀で相手をうつ護身の剣術)稽古,読書などは,毎月ほぼ決まったように繰り返されています。季節によって,仲間や兄弟たちと釣りや山菜取りに出かけ,「釣った魚で一杯」,「採って来たキノコで飯を炊いて食った」などの記事もあります。また,休みには,「…大正堂にて尺八稽古を終えた後,ライオン歯磨1袋,ミツワ石鹸1個,帽子1個を買って帰る…」,「御岳や乗鞍登山」,「平湯への湯治」とレジャー,スポーツや趣味,ショッピングも含まれ,結構楽しんでいた様子がうかがえます。

 この時代を「テレビもラジオもなく…」などと今の時代と比べて「娯楽とは縁が遠かった」ように表現することがありますが,どの時代の人々も,それぞれに時代の中で楽しみを見出していたに違いありません。もし今との違いをあげるとすれば,当時は仲間や地域の人々がともに楽しむ娯楽であって,今のように個人や家族で楽しむ娯楽とは大きく違っていたことでしょう。(T)【参考文献】『翠峰日記』

(第5部「東上田の民俗」より)


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