■『広報下呂』に載った当時の写真
 
 1930(昭和5)年8月31日、飛行機がえん堤上流の河原に不時着するということがありました。上空を飛ぶ飛行機の爆音すらほとんど聞くこともなかったこの山村に,突如として降って湧いたような驚天動地の大事件でした。
 当時,11 歳の少年だった野中佳和さん(現在91 歳)は,80 年前のこの出来事を,次のように話されました。
 …私が家の裏で栗拾いをしていたら,轟音がして飛行機が湯之島の方から低空で飛んできたが,川に沿ってそのまま川かみへ行ってしまった。しばらくするとまた戻ってきて,中川原上空で旋回すると,さらに高度を下げてえん堤の方へ向かった。飛行機が降りると思った瞬間,ガラガラというもの凄い音がした。それっ!とばかりに一目散に走った。
 飛行機は,水際に無事着陸して,2 人の乗員が機を点検しているところだった。車輪がパンクしているだけで,破損している箇所はない様子だった。飛行士の話では,エンジンが不調で不時着地点をさがして,小坂上空までいったが,よい場所がなくまた戻ってきた。写真を撮るため木曾川上空を目指したが,誤って飛騨川の方に入ってしまったと言う。
 騒ぎを知って,大勢の見物人が集まり,堤防の上と対岸の鉄道線路上は人の列だった。お盆のうちでもあり,馬瀬や竹原方面からも馬に乗ってやって来る人もあり,毎日,見物人が絶えなかった。私は毎日のように見に行った。
 操縦士は,松本の飛行場から来た長谷川という1 等飛行士とカメラマンだと言うことだった。機は複葉機で,側まで近づいて見たが,胴体と翼は木材と布を貼ったようなものでできていた。名古屋から整備士が来て修理することになり,その間,当時下にあった富士屋旅館に泊まっていた。高山線は,昭和5 年に下呂まで開通していた。
 修理が終わって,いよいよ離陸することになり,地元の人たちや消防団が出て,川原の大きな石を片付け,皆で機をえん堤の方へ引き戻した。エンジンがかかって動き出すと,後方で見ていた人々のカンカン帽が一斉に吹き飛んで水に落ちた。機は轟音を残して上流へ向かって無事飛び立った。しばらくすると,また戻ってきて,皆の前で翼を左右に振った。世話になったお礼の合図だったという。そして,東上田の丸野上空の山を越えて消えた。初めて見た飛行機の凄さに,皆感動し興奮さめやらぬ状態で立ち尽くした。
 口々に話しながらぞろぞろと富士屋の前まで来ると,『無事に松本へ到着した』という電報が届けられていた。そのあまりの速さに,皆は,またまた驚いてしまった。9月4 日の事だった。…
 当時11 歳という多感な少年の脳裏に焼き付いている情景の一部終始です。(N)

(第2部「東上田の近代化への道」より)