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 「トリビア(trivia)」という言葉。 以前「トリビアの泉」というテレビ番組がはやり、「雑学」や「知識」というような意味合いで使われるようになりました。 英語辞書で「trivia」を調べると、「ささいなこと、つまらないこと、雑学的なことがら」というように説明されています。 その語源を調べてみると、「tri」は「triangle(三角形)」「trio(三人組)」など、元々は「3」を表す言葉。 「via」は「~経由で」「~を通って」などの意味を持ち、「道」を表す言葉の基となっています。 そこで「trivia」について考えてみると、「三叉路(さんさろ)」という意味であったことがわかります。 それがどうして「雑学的な知識」というような意味になったのでしょうか。 諸説ありますが、「三叉路で出会った旅人が、食べ物や風土など、方々(ほうぼう)で仕入れた旅にまつわる様々な情報を交換」したことから、雑多な知識を「トリビア」というようになったとも言います。 未知の国からやってくる旅人の話は、三叉路に住む人々にとって、好奇心をかきたてる興味深い雑学だったのかもしれません。 
     

※小栗佐多里&トニー・ラズロ著
 「ダーリンの頭ン中」(㈱メディアファクトリー)より一部転載





  岐阜県のほぼ中央、飛騨の最南端に位置する旧金山町(現下呂市金山町)は、美濃と境を接する「国境の町」として発展してきました。 町の中央部を南下する「馬瀬川」と南部を流れる「飛騨川」が交わるあたりは「渡(わたり)」「大船渡(おおふなと)」の地名で、ここは舟で国境を越える往古の重要地点でもありました。
 南向きの河岸段丘に拡がる渡地区の遺跡からは、後期旧石器時代最末期のものと考えられる「矢じり(有舌尖頭器)」が出土しており、この地の歴史が一万年以上前から展開していることがわかります。 一方、大船渡地区には「保木口(ほきぐち)」の字名が残りますが、「保木」は「歩危」とも書き、ハケ、フキとともに断崖を意味する古語です。 山国の飛騨では、山が川までせり出した、崖っぷちの危険な場所をあらわす地名として各地に残っています。 保木口とは「危険な崖っぷちへの入り口」というような意味合いなのかもしれません。  
 金山地域に縄文時代の遺跡は多いのですが、弥生文化に属する遺跡は少なく、平成十三年になって「岩屋岩陰遺跡」(馬瀬川流域、岩屋ダム下流)から土器片や磨製石器が見つかったのみです。 岩陰遺跡自体は縄文の早期から利用されたと考えられ、 最近の調査研究によって遺跡及びその周辺の巨石群が古代の天体の観測に使用された可能性の高いことが知られています。 弥生時代に入ってからも岩陰遺跡は何らかの儀式の場になっていたと考えられていますが、旧益田郡(現下呂市)全域でも弥生文化に関する遺物は少なく、濃尾地方(美濃)のように、平地の稲作文化である弥生式そのものを受け入れにくい土地柄だっと考えられます。
  町の南西部「菅田(すがた)」地区(馬瀬川・飛騨川を美濃側に渡ったあたり)の地図をたどってみると、「県(あがた)」のつく「県口」「


左が馬瀬川、右が飛騨川。美濃・飛騨の国境で合流する、「渡」「大船渡」
県洞」などの地名や、「県明神」という神社を見つけることが出来ます。 五~六世紀頃の日本では、大和政権の地方行政は「国造(くにのみやっこ)」や「県主(あがたぬし)」などと呼ばれた部族政治集団が担っていましたが、金山の西南方の美濃地域には「牟義都国造(むげつのくにのみやつこ)」(現在の岐阜県関市・美濃市あたり)、「加茂県主(かものあがたぬし)」(現在の美濃加茂市)が展開していました。
  やがて、その勢力は金山地域を経て飛騨南地域(益田郡)へと浸透していったと考えられますが、その過程で加茂県主の勢力拠点に「県(あがた)」の地名が残されていったのではないでしょうか。 そして土着していった県の一族が自らの氏族の先祖を氏神として祀ったのが「県明神」の由来と考えられます。



 

 このように早い時期から畿内(大和朝廷)勢力下にあった美濃と、峻険な土地柄によってある種の独自性が保たれたであろう飛騨。 その国境に位置した金山を考えるのに、興味深い話が「両面宿儺(りょうめんすくな)」の伝説です。 日本書紀の仁徳紀には次のような宿儺(以後スクナ)の記事があります。 「この怪人は一体両面で、頭は背にくっつき首がなく、手足が四本づつある。 くるぶしはない。 力が強くてすばしこく、左右に剣をおび、四本の手で弓矢を使う。 皇命に従わず、人民を略奪するので和珥(わに)の臣の祖、難波根子武振熊(なにわのねこたけふるくま)をつかわして誅した。(仁徳六十五(377?)年)」というもので、日本書紀を編纂した大和朝廷側の視点から、異形の怪物・人民を苦しめ天皇の命令に従わない悪者として書かれています。
 一方、金山の鎮守山にはスクナにまつわる次のような伝説が残っています。 「仁徳天皇の御宇 飛騨大野郡八賀郷日面出波ヶ平の岩窟より 両面四臂の奇人出現 飛行してこの地に杖を止め 大悲の陀羅尼を論じ 国家安全・五穀成熟の祭祀ありて後 津保の高沢山へ飛行せり」(武儀郡古蹟名勝誌)。  こちらは、朝廷軍を迎え撃つスクナの様子が飛騨側の視点で語られています。 スクナは武振熊を向かえ撃つため、金山の鎮守山に駐留し、三十七日間大陀羅尼経をとなえ、国家安全、五穀豊穣を祈った後、関市武儀町下の保の高沢山に飛び立ったというものです。      (写真:鎮守山に立つスクナ像)
 その後、スクナは高沢で武振熊に破れ、武振熊のスクナ討伐隊は、金山を通って飛騨路を北進したと伝えられています。 美濃の「菅田」から渡し船に乗って飛騨に上陸した討伐隊の第一歩の地が現在の「大船渡」で、その近くの中津原では大岩の上に八幡大神を勧請し、ここで戦勝を祈願したのです。 その大岩は「根子岩」(ねこいわ)と呼ばれ、現在の下原八幡神社(祭神は仁徳の先帝、応神と神功皇后)に残されています。 これに続き、飛騨路進撃の守護神を要所々々に祀ったのが飛騨八幡八社の始まりであると言われています。
   ・中津原(水無八幡神社)‐乗政(水無八幡神社)‐下呂(水無八幡神社)‐上呂(久津八幡神社)‐山之口(位山八幡神社)‐一宮(水無八幡神社)‐石浦(若宮八幡神社)‐丹生川(相山八幡神社)

 この八社を結ぶ進軍の道が、大化の改新以降は駅伝制を備える「東山道飛騨支路」として都から飛騨国府への往来の道となったのです。 後に「飛騨古道」と呼ばれるこの道は、「飛騨の匠」が都へと向かう道でもありました。 金山には古代律令を支える駅伝制度の「駅」(「菅田駅」、現在の菅田郵便局のあたりか)が置かれ、都と飛騨国府をつなぐ重要拠点としてその役割を担っていたのです。



 

 「続日本紀」宝亀七(776)年の記述に、『美濃国菅田駅 与飛騨国大野郡伴有駅 相去 七十四里 岩谷険深 行程程遠 其中間量置一駅 名曰下留』とあります。 美濃の菅田駅(菅田は美濃の領域でした)から、飛騨の大野郡伴有(とまり)駅(現在の萩原町上呂)までは七十四里(当時の一里はおよそ533.5mと推定されてます。 したがって40㎞弱といったところでしょうか)で、岩は険しく谷は深くその道のりは遠い。 そこで中間に一駅をおいて「下留」(現在の下呂の地名ゆえん)と名付けたということが書かれています。
 菅田からの行程を地図上で追ってみると、菅田‐大船渡‐(中津原・八幡神社)‐和佐峠‐焼石峠‐久野川‐夏焼峠‐鳥屋ヶ野峠を経て宮地・乗政に到着(ここを「下留駅・しものとまりえき」と推定(金山町誌))。  続いて、初矢峠‐小川‐湯島‐東上田‐中留(中呂)‐花池‐上村‐桜洞‐伴有(上留・上呂)と北上します。 この山路を駅馬や伝馬が駅鈴を鳴らして往来し、国司・郡司等の赴任、都から派遣された巡察使等の「国衙(こくが)」(律令時代におかれた国の役所)への通行、あるいは飛騨匠丁(飛騨の匠)が遠い昔、都と飛騨を往来したのです。  飛騨路を偲ぶ古歌が作者は不明ですが菅田には残っています。

      「しらまゆみ斐陀の国へ行きかよう 菅田のさとはここにあるらむ」 (詠み人知らず)

 延喜式(905~927年にかけて編纂された律令の施行細則)には「凡飛騨国 金山河渡子二人 免徭役」とあります。 「徭役」とは、古代律令制において、成年男子に課せられた強制労働のことで、「金山河」とは現在の飛騨川、その渡船場(現在の大船渡か)には二人の渡船従事者が配置され、彼等はその他の雑役は免除されたというような内容です。 当時、渡船場の周囲には様々な設備(宿泊所・倉庫・馬小屋など)も作られ、多くの人々が集まったことでしょう。そうした地点が後に金山の中心地域としてに発展していったのも想像に難くありません。

 さて、ここで古代の「流通トリビア」をのぞいてみましょう。 まずは馬(現代ならばさしずめトラックでしょうか)の積載量です。 当時の馬の積載量は一匹あたり60㎏、米の場合は90㎏が標準とされていました。 次に所要時間です。美濃から京都への輸送は、上京(行き)四日、下向(帰り)二日。 飛騨から京都への輸送は、上京(行き)十四日、下向(帰り)七日とされていました。(帰りは荷物が無いから半減です)  そして運賃。 「主税式」(古代の税・料金の取り決めが書かれた文書)によると、美濃から京都へは、一駄(馬1頭に背負わせられる荷物。 また、その分量)につき稲十二束。 現在の二斗四升に相当します。 積載量が米の場合九〇㎏(約六斗)でしたの


金山町内、旧益田街道
で、二斗四升は六斗の約40%。 積荷の40%が運賃として消える計算になります。 これが飛騨から京都までだったらどのくらいかかったのでしょうか。 答えは、一駄につき稲四十六束。 積荷の約153%が運賃となり大赤字となってしまいます。  飛騨では後に「飛騨の匠」と呼ばれた人々を税の代わりに派遣したというのも、農産品に乏しい土地柄であったということだけでなく、このような交通の事情の中、運賃のかかる物品よりも自分で歩く「人員」を税にしたということもあったのかもしれません。                                              
 このように、いつの時代でも輸送という大仕事が地元には控えており、駄馬と「ボッカ」(人間の背負人夫)を主軸とする陸路は、美濃路と違って飛騨路は困難をきわめました。 飛騨国府から都まで14日、半月ばかりも日数をかけなければならなかったのです。 それがために多少遠距離となっても悪路をさけ、より安全な道を通行していたことでしょう。 余談ですが、金山地域には、『ボッカ三里(12㎞)牛は四里(16㎞)』との言葉が伝承されています。 「ボッカ」と「牛」の一日の里程を示す言葉です。


 

 鎌倉、室町、戦国へと時代の移った中世は、道路が「官道」から「街道」へと変わる転換期でもありました。 室町時代に入ると飛騨官道の「菅田駅」「菅田郷」「菅田庄」の名は消え、正長元年(1428)篠原村、寛正五年(1464)切原村と、はじめて村と言う文字が史料に見えてきます。 そして戦国期に入ると、すべての道路は各地に群立する戦国領主の政治的軍事上の路線へと変化して行きました。
 天正十四年(1586)、金森長近が豊臣秀吉から飛騨の大名に封ぜられ、入国すると間もなく道路の整備に取りかかりました。 飛騨高山の町づくり、文化の醸成も金森長近の遺産として有名ですが、山中(尾根)を歩く古代からの「山道」を、川沿いを歩く「川の道」へと変化させたのも大きな業績だったと私は思います。 特に金山地域に関係が深いものとしては、金山‐下呂間の「中山七里」と呼ばれる難所の開通です。 現在は、急峻な山々の間を、奇岩・怪石に囲まれた谷底を眺めながら走る風光明美な国道として知られていますが、この開通は地域住民の厳しい作業の成果であったと伝えられています。 難所の中心は保井戸地区で、特に工事に功績のあった保井戸村百姓の小右衛門は「高三石四斗」の永年褒章をもらったと伝えられています。 もちろん当時の土木技術の発展もその背景にはあったことでしょう。 高きから低きに流れる水(川の流れ)に沿った方が、当然短距離ではあるはずです。 しかし、太古の昔より飛騨の山々を侵食して流れる川筋は険しく、人を容易には寄せ付けませんでした。 それ故に、山の尾根をつたい歩くけもの道から、人の道



飛騨川・下原ダム湖畔を走る鉄路、高山本線
は先ずは開かれたように思うのです。 そして、戦国の時代というある種の力の蓄積と、一定の土木技術の発達が川沿いの道の開拓を可能にし、それが山国飛騨が次の時代へと変化する新たな道筋になったのでではないかと思うのです。 (後にこの川沿いには鉄路(現在のJR東海高山本線)が敷かれ、水力による電源開発もあいまって飛騨は大きく変わっていきました)            


 

 金森長近の飛騨入国後、慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いを経て徳川家康による江戸幕府が開かれると、飛騨は長近を初代藩主とする高山藩領となりましたが、金山地域は高山藩、尾張藩、苗木藩、郡上藩にわかれていました。 後に、高山藩は幕府直轄の天領となります。  高山藩‐中津原村・下原村・中切村・大船渡村・渡村・福来村 尾張藩‐切原村・篠洞村・金山村 苗木藩‐田島村 郡上藩‐卯野原村  ところが、江戸時代を通じて金山地域は大名(藩主)の城下町になったことは一度もなく、藩政の中心となる侍屋敷の集団も無ければ行政機関もありませんでした。 高山藩(後の天領)としては領域の南限に位置し、郡上藩領としては東の端に位置し、苗木藩領でいえば西端にあたり、尾張藩領でいえば北隅にかたよっていました。 「どの藩にとっても自領の涯(はて)にあった。藩としては僻遠の地であり、格別とりたてて重視せねばならない必要は無かった。(金山町誌)」のです。 ただ、藩領の境にあるということで、藩境を固めようとすれば注目はしなければなりませんでした。 その代表的な一つが飛騨への入り口としての番所であり、もう一つが飛騨川の材木が尾張藩領へ流れ込む境にあたることでした。  室町幕府の後半、戦国時代に入ってしばらく後の享禄元年(1528)、萩原城(現在の下呂市萩原町萩原、桜洞城とも言う)の三木(みつき)大和守が南飛騨一帯を支配していたころ、金山村に役所を置き、飛騨川や馬瀬川、佐見川より流される材木6本につき1本を税として取り上げはじめました。 また「岡役銀」として陸路搬出の貨物にも税金をかけるにようになりましたが、その 後領主が代っても同様に引き継がれ、江戸時代になり金山周辺の各村が尾張藩領になっても六分の一税は変わらず徴収され続けました。 (飛騨が元禄五年(1692)に天領となってからは、幕府の御用木だけは無税で通されるようになりました)  役人は徴収した材木をその場で売り払って銀に替え、それを「六分一役銀」と呼びましたが、後には現物ではなく六分の一に相当する銀で徴収するようになったそうです。 金山役所での御役銀取立てはもともとは地元の有力者にその役割が命じられましたが、天和二年(1682)には茶問屋・馬荷問屋の他、所々に御番所も設けられ、街道を行き交う荷物から御役銀(税金)がとり立てられるようになりました。  役所・番所が設けられ、行き交う物資に税金が掛けられた辺境の国境地帯。遠く山奥から流された材木が集積する川の合流地点。渡し船で国境を渡る多くの人や物。 恐らくそこには様々な情報が集まり、様々な駆け引きも行われたことでしょう。 目をつむると、旅人や行商人のもたらす様々なトリビアが飛び交うなか、歴史に名前を残すこと無く活躍した多くの人々の息遣いや喚声が聞こえてくるようです。


 

 そのような土地柄のなか、幕末の万延元年(1869)に江戸幕府が日米修好通商条約の批准書交換のために派遣した「万延元年遣米使節」の一員に選ばれた加藤素毛は輩出されました。 この使節団は江戸幕府が1854年に開国した後、初めて派遣された公式訪問団であり、初めて公式に世界一周をした日本人達でした。
  (以下、「続金山町誌」より引用)  「加藤素毛は下原郷十六ヶ村兼帯名主、加藤三郎右衛門の次男として、文政八年(1825)年十月十七日に生まれた。 幼名を藤平、のち十郎、雅英、号を素毛、君林舎、霊芝庵(万年茸愛好)、長咲堂(長崎吟行後)(※編注「吟行」:和歌や俳句の題材を求めて、名所•旧跡などに出かけること)、周海子、米行子(世界一周後)と称した。 明治十二年(1879)五月十二日没。  幕府は長年の鎖国を解いて、万延元年(1869)年、日米修好通商条約批准書交換のため、全国の俊才を選抜して正使以下七十七人の遣米使節を任命した。 その中に素毛は文筆の才を認められて加わったのである。 当時の世界一周は日本始まって以来の


「坊山(ぼうやま)」  土地の人は、この山の姿を見ると「金山に帰って
きた」と感じるのだそうだ
ことであり、大洋には幽霊や海坊主がいるとされ、現在の宇宙探検に出発するほどの大事であった。 素毛は自ら志願しただけに団員中最も筆まめで、出発から帰朝までの見聞の総てを日記、俳句、和歌、漢詩、絵画に克明に書き残し、日米修好史上貴重な資料となった。 まさに海外吟行の先駆者であった。  帰国後の素毛は、各地で異国文化の紹介周知に努め、大好評であった。 素毛がブキャナン大統領から拝領して持ち帰った、米国建国途上の間もない三十一星の星条旗は、米本国でも希少価値とされ、終戦後米国へ持参して日米友好に大きな役割を果たしている。 この星条旗は、素毛が帰国後下原八幡神社に奉納したもので、以後八十年間宝物として大切に保存され、春の例祭には御旅行列の先頭を飾っていたが、戦時中に焼却されることを恐れ、大阪府富田林市(とんだばやしし)楠妣庵観音寺(なんびあんかんのんじ)に移管した。 当町の記念館に展示している星条旗と国旗はそのレプリカである。  素毛の見識は、当時の鎖国日本が海外へ目を開く大きな要因となった。 素毛の近隣には多くの知的文化人が輩出している。 (中略)直接間接に文雅の道に精通した素毛が、 勇気と希望を与えた感化によるものと言われる。」
 現在、金山の下原地区には地元の尽力により「加藤素毛記念館(霊芝庵)」が生家跡に建てられ、素毛の残した膨大な資料や遺品が展示されています。 そこには国境の町が育んだであろう素毛の旺盛な知的向学心と、世界へ飛躍した勇気が町の誇りとして大切に守られています。 


 

 「ここから飛騨路」、高山本線飛騨金山駅の改札口に掛けられている看板です。 しかし、そんな国境の駅も、乗車券を改める駅員は平成二十四年(2012)から地元観光協会による委託となりました。
 今から八十五年前の昭和三年(1928)三月二十一日、かつて渡船場のあった大船渡地区に鉄道駅が開設されると、周囲は飛躍的な発展を遂げました。 そして昭和五十三年(1978)、駅開設五〇周年の時、地元の古老は次のように回想しています。
  「何にしても昔の偏地大船渡は、今や戸数三〇〇戸という立派な町に生まれ変わった。 高山線沿線でもまれに見る大発展である。 (中略)この駅がちょうど岐阜・高山間の中間地点にあり、周辺町村の要の位置を占めているという絶好の条件下にあることを忘れてはならない」。
 それ以降、駅の乗降客数は徐々に減り続けます。 そして鉄道に取って代わったモータリゼーションも、平成二十年(2008)に東海北陸自動車道が全線開通すると、金森以来幹線であり続けた飛騨川沿いの街道・鉄路は、山の向こうの高速道路にその座を譲ることになりました。
 いま、金山は縄文以来の歴史を見直しながら、新しい町のあり方を模索しています。 「町おこし」と言ってしまえば各地のそれと横並びのようですが、金山では郷土や歴史への好奇心から、誰ともなくふるさとを見つめ直し、やがてそれが周囲の知るところとなって共感を集め、やがて町全体を巻きこむ大きな流れを生み出す。 そんな風に金山の町おこしは育ってきているように思います。 古代ロマンを誘う「金山巨石群」、日常の中に新しい魅力を発見する「飛騨街道筋骨(路地裏)めぐり」、世界唯一の魚保存技法「魚皮拓」など、個性的な取り組みが現在の金山の代名詞に育ってきています。
 かつて、人々が行き交い、情報や力が交錯した国境の町。時代が変わっても、感受性豊かに好奇心のアンテナを張る気質は、そんなところにも受け継がれているのかもしれません。  「飛騨金山には訪ねてみたい場所がある」それをさがすところからが金山の魅力なのです。